
必死に生きた結果
西郷隆盛、坂本龍馬も新撰組の浪士たちも、
その時代に将来の日本のために必死になって動きました。
そして後になって、その様子を見ていた人が証言したものを記録されて今に伝えられています。
坂本龍馬は維新後しばらくは注目されることはありませんでした。
明治16年、1883年に高知土陽新聞に掲載されていた
『汗血千里の駒』が大評判となり脚光を浴びたのです。

さらに龍馬ブームが起きるのは日露戦争時に日露が国交を断絶した
明治37年、皇后美子様の夢枕に白衣を着た37、8歳の男性が立ち、
「微臣ハ坂本龍馬ニ候ガ」と名乗り、
「私が海軍軍人を守護いたします」と語りました。
皇后はこの人物を知らませんでしたが、
宮内大臣田中光顕(元土佐勤王党出身で陸援隊幹部)が、
龍馬の写真を見せたところ、皇后は間違いなくこの人物だと語ったのです。

この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まることとなりました。
庶民の間でも龍馬は維新の偉人として人気者となり、
戦前には龍馬や海援隊を主題とした映画・演劇が多数製作されました。
続く
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